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作曲コンに出てみた

タイトルの通り。初めて応募してみたのですが、出した後に思い返すと、いろいろな反省点が出てきました。

・速度記号が不適切

・奏法(トーンクラスターのとき)の英語表記のミス

・ペダル指示 etc

もしかしたらコンクールに挑むのはまだ早かったのかもしれません。

「作曲」という営みに興味を持ち始めてもうすぐ10年 ピアノの先生に師事していたものの、作曲の先生に師事することはありませんでした。

「独学」と言えるほど、勉強してこなかったかもしれない。不勉強が身にしみる。

「独楽」と言ったほうが適切でしょうか...。

このように思うと共に、脳裏には「やはり独学してきたろう」とささやく自分もいます。 

「独学」の作曲家と言えば、伊福部昭さんと武満徹さん、そして吉松隆さん。数多いる日本人作曲家の中でも名を馳せる御三方は「独学」の作曲家です。

 

このまま、「独学の作曲家」の系譜に乗っかっていこうというのも又、誰かに師事するよりも楽しいかもしれません。

 

何かコンクールに出ること が大学時代の目標でしたので、今回は(もちろん結果が出れば越したことはないですが)自分のなかで踏ん切りがつきました。

 

ちなみに作品は(審査中なので詳しくは避けますが)左手のピアノのための曲にしました。(題材にしたのが、左腕をクラゲに噛まれることから始まるので...。)

次に曲を書くときは、自分なりに「和声」「対位法」「楽式」「管弦楽法」を学んだあとにしたいと思います。

 

コンサート記録 中央大学管弦楽団の演奏会へ行ってきた。

●コンサート情報

日時:2013年5月18日㈯ 場所:パルテノン多摩 大ホール

管弦楽中央大学管弦楽団 

指揮:佐藤寿一 ヴァイオリン:伝田正秀

曲目 ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61

   R.シュトラウス交響曲第2番ヘ短調作品12

 

最初にビラを見たとき「え!R.シュトラウス交響曲第2番だと!?!?!?!?!」と驚いたと共に歓喜した。

この交響曲は、おそらくだがR.シュトラウス好きは世の中に多かれど、聴かれることは少ない部類に入ると思う。いわゆるマイナー交響曲である。

それを一大学の管弦楽団が演奏するという... なんとも素晴らしい!としか言いようがない。「よくぞやってくれた!」と叫びたくなった。

そして、ベートーヴェンのVnコン ソリストは伝田正秀さん。僕がクラシックにハマり始めたころの仙台フィルコンマスをなさっていたかたである。

 

こんなに魅力的なコンサートが、自宅から徒歩10分の音楽堂で開かれるのだから、僕は音楽の神に感謝した。

 

と、ここまで書いたのはいいけどここからは演奏評ではないのです。けど、一言二言書いておきたいことを...

 

シュトラウスの2番 第3楽章を真っ暗な部屋で聴いてみてほしい。

こわすぎる...。なんか、あの楽章だけ「死」とか、何かひんやりしたものがつきまとってる気がする。

以上 僕個人の極端な感想でした。

 

追伸:中大管弦楽団さんは、故小松一彦氏の追悼演奏会を計画しているそうです。(小松氏は同管弦楽団の音楽監督でした) ぜひとも貴志康一の作品を!!!!!!!!!!!!!!!!ぜひ!!!!!!!!!!!!「日本スケッチ」!「日本組曲」!「仏陀」! 須賀田磯太郎でも可 (笑)

 

 

 

疎遠を懐かしむということ

知り合いのかたが、「疎遠になった人々のことが懐かしい」と仰っていた。

その言葉を聴いて素直に、彼は疎遠になった人々と幸せ時間を過ごされてきたのだろうなぁ と思った。

一方で、このようにも思った。

疎遠になった人と、僕の関係が良好でなかった場合でも

懐かしく思えるだろうか。と。

相手との関係が良好ならば:幸せ→懐かしく感じる

良好でなかったならば:懐かしく感じるor思い出したくもない→幸せ になるのだろう

という結論に至った。

 

(増田に書いた自分の記事を転載)

3月へ思うこと

春だなぁ、と感じるくらい今日はとても暖かいです。明日からは3月が始まります。

3月は自分にとって一番思いが強い月です。なぜかといいますと、3年前私は大学受験に落ち、浪人生活を始めることを決意したのが3月だったからです。

あの時は、布団に入ってもなかなか寝付けず、朝の防災無線のメロディが虚しく聞こえ、起床してもとにかく気持ちが悪くて吐き気や手の震えが止まりませんでした。他の浪人経験者に聞けば、3月は遊んでいたとか、気楽にしていたと聞きます。

自分は比して気が小さいようです。また、妄想癖が強いのであの時期には自分が試験に落ちたことを喜んでいる人々がいるんじゃないかと(実際いましたが)必要以上に他人の動向を気にしていました。実際に、それまで関わりのない、住んでいる地区も違う家の人が僕の情報を嗅ぎまわっていました。(そいつは創価学会員です。最も嫌悪を抱きたくなります)

予備校で一念発起しようと決意し、これから1年間をどう過ごすか考える楽しみと浪人することへの後ろめたさが同居していました。

そして一年後の3月。大震災が僕の住む地域を震度7という大きさで襲いました。死を覚悟し、ただ頭を抱えて地面にうずくまるしかありませんでした。翌日に後期試験があり、出発の準備を終えた矢先の出来事だったのです。あの瞬間に僕の大学受験は終わりました。

形としては。

 

あの時から抱えている怨みをいつか晴らしてやろう。必ずその機会が来ると信じています。それが今の生きる希望です。怨みが希望になるなんて どうかしています。

 

 

『知的生活の方法』(渡部昇一)を読んで

知的生活の方法 (講談社現代新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)

 

決してハウツー本という枠では表現できない、知的生活の「方法」について書かれた新書だと思いました。

著者は渡部昇一さん。専門は英語学で、本書では幼少から研究者として活躍されるまでの人生で、学問に対する生き方について書かれています。

参考になった点は、読書について思うところが多々ありました。本の読み方にも精読する本と、飛ばし読みする本とで分けることが必要。いつもバカ正直に本の一字一句を追って読んだ気にならないように心がけようと思いました。

 

感動したのは、本を買うために身銭を切る という姿勢です。図書館の存在は、本に触れる機会を多くしてくれますが、渡部さんは本を自分の手元に常に置いておくべきだと主張しています。 論文を書くにしても、一度読んだ後、ふと再び読みたくなった時などにしても本を手元に置くことは知的生活にとって欠かせないことなのかもしれません。

 

その姿勢を貫くためには、住まいにも配慮をするべきだそうです。本書では、研究生活を潤滑に進めるために住環境をどう整えるべきかも書かれていました。図もついていて参考になります。(自分が将来、家を建てるかは置いといて......)

 

読書をして、気になる部分には線を引く という方法が薦められています。この方法は普段から自分でも行っているので安心しました。再度読みたくなったとき、線を引いたところだけ読めば自分にとって必要な記述がすぐに読めますからね。

 

自分は、一度就職するにしろどうするにしろ大学院に行くつもりなので、研究者の体験記的な側面を持つ本書は大変有意義でした。

「意識高い系」という病(常見陽平 著)を読んで

「意識高い系」という病~ソーシャル時代にはびこるバカヤロー (ベスト新書)

「意識高い系」という病~ソーシャル時代にはびこるバカヤロー (ベスト新書)

今月のはじめに発売されたばかりの新書で、アマゾンで新書を漁っていたらすごく気になったので先週の日曜に購入し、本日読み終わりました。

この本で話題の中心となっているのは、ネットスラングでもある「意識高い学生(笑)」や、その類の「意識高い系」の人々です。

彼らの何が、「意識高い(笑)」のかというとそれは、身の丈に合っていない言動をし、そのことで他人を巻き込む ということに帰結するのではないでしょうか。

よく目にする「意識の高い学生」ですが、ちょうど今月から本格的に就活が始まり、世の中ではこの「意識の高い学生」が狂喜乱舞していることでしょう。(僕は浪人したので今年は就活の年にはあたりません。ので、現役で逝った同級生たちの就活を高みの見物です←上から目線w)

意識高い系の人々が増える温床とでもいうべきもの それはSNSなのだそうです。実際に、「就活」や「勉強会」なんて言葉をTwitterの検索にかけると、いかに自分が夢に向かったり、忙しい日々をおくっているのか(リア充ともとれるアピール)を発言し、求めても居ないのに報告してくれています。(このブログだって、誰にも頼まれたわけじゃないのに書いているわけですが)

 

意識高い系の人たちの問題は、他人を巻き込むこと だと僕は思っています。彼らはよくイベントやら何やらを主催する際に、逐一SNSで宣伝をするのです。「SNSしか宣伝手段がない。」とする意見もあるでしょうが、目ぼしい相手がSNSで宣伝する前についている場合、その人だけを誘えば良いだろうと思うのです。それなのに、何故か逐一声をあげてくる。正直うっとうしいのです。

 

意識を高くしようとしていろいろと行動しているのはわかりますが、他人を巻き込むことで当初の目的からズレが生じ、いつのまにか目的が不明 「意識が不明の学生」になってしまうのでは?と心配になるアカウントも散見されます。僕は、そうゎなりたくなぃ。

また、意識高い系の行動は、ヤンキー魂と同じものが通底していると本書では書かれています。ヤンキーが言う「全国制覇」、母校の同級生たちが言っていた「テッペン()目指そうぜ」「俺はネ申の子」等々の発言と、TwitterやFBでの目標をつぶやくことには通じるものがあります。

「意識高い人」になるためには、自分の置かれた現状を充分に把握する必要があるんではないかと感じました。

 

 

渋谷知美著『日本の童貞』 第1章~第2章 を読んで(要約・意見)

今回も渋谷さんの『日本の童貞』について書きます。まず最初に、突っ込まれそうなのでお断りしておきますが、この本を取り上げるきっかけには、僕が童貞であるか否かということはまったく関係していません。(笑)ただ、若者文化を考えるうえで、この話題ははずせないと思ったのです。多くの若い人がこの話題を心の奥底で取り扱っているはずです。今日は第1章から第2章を読んで感じたことを書いていきたいと思います。

 

●第1章「新妻にささげる贈り物」としての童貞-1920年代の学生たち

渋谷さんが本書でお書きになったり、実際に僕の高校時代に、DQNたちの会話から聴こえたように、「童貞」であるということは「恥」ととらえられるのが現代です。しかし、この章であつかわれる1920年という時代には、童貞は「カッコイイ」「美徳」の概念でした。1920年代と今ではだいぶ時間に開きがありますが、若者が性欲で満たされているのには変わりありません(笑)1920年代(以下20年代)の学生たちには、将来の結婚相手に処女を求めるならば、自らも純潔であるべきだ と考える者が多かったようです。一方で、童貞であることに何の意味があるのか、さっさとこんなもの捨てちまいたい!と考える若者たちも居ました。前者の考えは、時代的には急進的であったようです。なぜなら、当時の風潮では女性は純潔であることは美徳とされていましたが、男性の場合にその概念はあてはめられていなかったからです。故に後者が、童貞に価値を見いだせなかったことにも納得できます。また、童貞であることを主張した人々の中には「性病」に感染することを恐れていた人もいました。花柳界(いまでいうフーゾク)に足を踏み入れることを嫌っていたのです。対して非童貞の若者たちの初体験相手の過半数はシロウトでした。現代では「素人童貞」なんて言葉があるくらいの状況ですが、20年代には素人で過半数が卒業できたのです。時代のギャップを感じます。ちなみに以下のツイートによると、最近の大学生男子の非童貞率と 20年代の非童貞率56.2%にはほぼ差がありません。この点に関しては時代に変化はないのでしょうか

この時代の学生の回顧録からは、異性との性的交渉だけが童貞卒業ではない、とみなす考えが社会の一部にはあったことがうかがえます。日本古来から続く「男色」文化が「異常」とみなされる寸前の時代でもあるので、このような考えがあったのでしょう。(ちなみに三島由紀夫の『禁色』は男色がテーマです)1980年代になると、この考えとは全く対照的にこういうケースは「笑い」へと変化させられます。(現在のオネエブーム、ホモォ... アッー などのホモネタブームの源流となってるのでは?)

 

●第2章 童貞のススメ

この章では、福澤諭吉巌本善治(巌本という人物は初めて知りました)が、当時頻繁に男性が「童貞」貞操を守ることについての言及を残していたようです。福澤は、当時の男性たちが日常生活で平然と自分の妾について話したり、フーゾクへ行った話をしていることを嘆きました。福澤は、男性というのはそのような性に関する話題を公然とするものではなく(しかし影ではやっていいという...)気品のある日本男児たることを訴えました。この背景には、福澤が明治維新から間もない近代国家建設期の人間であることが深く関係しています。彼は、日本人が気品ある者でなければ諸外国に顔向けができないし、文明開化とはいってもまだまだ野蛮な国家であると考えていたのです。童貞をすすめるというよりは、「品」に重点を置いていると思います。

もう一人の巌本は、「男の貞操」という言葉で童貞であることをすすめました。「男の」というのが頭につく場合、それは基本的に女性にあてはまる言葉を指します。(男泣き、男の涙、男の料理 土佐日記は...例外です...)巌本は、男性が貞操を守る場合、それは「気概」から来るのだとしています。自分が一生かけて愛する女以外のたいしたことないそこらへんの女なんかに、俺様の肉体は触れさせない! とでも言ったところでしょうか。そして、女性が貞操を守る理由はこれとは別に用意されています。巌本は、貞操を守るということを通してジェンダー化を図ったのです。

彼らのほかに、浅田一という医師や、他の医者・教育者たちは女性が一度セックスすると、男性の精液が血液に入り、血液検査で処女か否かわかる と断言している人々がいたことに驚きました。(読んでいて笑えました。)男性の場合、童貞喪失しても肉体に変化はないとも言っていました。(そりゃそうでしょうね。)

 

ほかにもいろいろ書きたいことはありますが、長くて且つ考えがまとまらないので、今回はここまでにします。第3章から書くかどうかは未定です。一気に感想を書いてこの本を終わらせるほうが確立高いです。読んでいただいた方にはお礼申し上げます。

日本の童貞 (文春新書)

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