渋谷知美著『日本の童貞』 序章(はじめに) 要約
読んでいる本の内容をあとから振り返るために、ネットにも残しておきます。個人的なことであります。こうでもしないと、まだ読書が進まない程度なんです。
●童貞受難の時代
1920年代の学生の言葉から、童貞は現代の「恥ずかしい」イメージとは異なり、その純潔さに価値を見出している様子がうかがえる。童貞のイメージは変遷し、また人によって様々である。
●挿入だけでも喪失か
童貞とは一般的に「性交未経験の男性」のことを指し、そこには「肉体的に性交可能な程度に成熟しているにもかかわらず」という含みを持って定義される。その「性交」の内実は何なのかという疑問に対し「膣へ挿入し、射精する」or「膣へ挿入するだけ」という意見がそれぞれ存在する。両者は、射精する/しない を問題にしている点では同質の意見ととらえることもできる。
●「童貞らしさ」の定義
「童貞らしさ」について考えるとき、女体へ触れる機会があればそれは童貞としてみなされるのか という疑問が生じる。性科学者澤田順次郎は、破廉恥であったり、浮浪者や不良少年は童貞ではないとする。
●オナニーをしたら童貞ではない
女性の場合、処女膜を破ると非処女となるが、男性の場合は何をもって童貞が非童貞となるのか目に見えてわかるものではなく、観念上でしか取りあげようがない とピアニスト栗山伸子は言う。また、澤田は異性との性交を空想しただけの童貞は純粋な童貞ではないが(観念上で女体へ触れているから)性交を空想するのは誰にでもあることであり、よって肉体的な問題として童貞を考える必要があるのである。
●童貞とは誰か
童貞の定義は、はっきりとしたものではない。それは、童貞に関する言説そのものの中に童貞の多様性が含まれているからである。
以上が要約です。なぜこんなことしているかというと、読んだ本の内容を忘れないようにするためです。僕の専攻は日本史ですが、読書では日本史以外の教養についても本を通して触れたいのです。その過程を紙に書き、またこうして電子上に残してお交と思います。これは、きわめて個人的なことであります。
- 作者: 渋谷知美
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2003/05
- メディア: 新書
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視点を変えたい(配慮する心)
僕のみならず、誰だって言葉を伝えたり、考えたりするときは必ずその人の「視点」があると思う。自分に見えるものをベースに物事を考えることは多いことだろう。これは、広義で自己中心的 なのかもしれない。 モノを見る視点を変えたい。
そう思ったのは、最近 サークルやら演習やらで人と意見をぶつけることがやたらと多くなったからだ。ここ数日は毎日、他人との意見のぶつけ合いが多い。
たとえば、どんな状況でもいいけど 役割を自分が持っていたとする。共同作業をする相手がいて、その人も役割を持っている。
そのとき相手は、役割の内容を勘違いしていたとする。僕はその間違いを修正しようと努める。このとき衝突が起きる。
僕の視点から見れば、相手は間違っている。相手から見れば、その人は間違っていない。
このとき、相手はすっかりと自分の役割を限定しつくしているのだと僕はおもうことになる。
限定しているから「自分の役割は〇〇なのに、今の現状は△△だから これはおかしいことである」 と僕に反発してくるだろう。
ここでロールプレイング なんてものができたらさぞかし便利だろう。
一瞬でもいいから、役割を変えてみたい。 視点を変える補助にならないだろうか。
視点を変えることで、自分の立場が本当にわかる なんてことがあるかもしれない。
次の例
僕が何かを提案したとする。 これを見た人たちが次々と意見(文句)をしてくる。
彼らは 僕の役割は提案すること 自分たちは受け身の役割 と限定しているのだと思うことになる。
(実例なので、踏み込むと) 提案する役割の僕は、受け手がどう思うかそれなりに考えるわけだ。(相手を傷つけないように神経をすり減らすのだ)
それを一瞬のうちに反論してくるというのは、彼らの思考回路は高速道路のように回転が良いのだろうか。そんなわけないだろう。
瞬時の反論には必ず感覚的なもの、自己中心的な視点が盛り込まれていると思う。(この意見もまた感覚的であるが...)
ここでロールプレイングが欲しい。
受け身にとっての相手(=提案する側)はどのようにして自分たちに提案してきたのか その過程をたどってみるとおもしろいのではないか。
それさえ知れば、一瞬で反論するなんて到底無理だ。
そうはいっても、こう書いていることだって結局は自分の視点から抜け出せていないところが多々あると思う。
要は、人とコミュニケーションするためには自分を相手の立場に置き換える(小学校で耳にタコができるくらい聴かされた名文句w)配慮の心が必要だとここ数日ひしひしと感じているのです。
また、自分がやっていることに 全否定でもない限り、コメントをもらえるというのはありがたいことだと思う。ここでも、相手がどうしてそういう言葉をかけてくれたのか、視点を置き換え反芻して、自分にとってプラスになることを吸収する姿勢(恩師は 吸収男児 とおっしゃってた)は忘れないようにしたい。
【読書感想文】『認められたいの正体』(山竹伸二)を読んで
「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)
- 作者: 山竹伸二
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/03/18
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この本で全編に一貫して出てくる主張 それは
・かつては人々の価値観は慣習などによってある程度定められていたため、それに従い他人を評価することができたが、時代が進み、現代においては技術の進歩によって価値観が多様になり、評価する基準が不明瞭になった。
そのため、簡単に自分を評価してもらうことは容易ではなくなり身近な他者からの承認を求めるようになった。その行動を選ぶ際、常に他人にどう思われるかばかり気にしすぎると自分を見失う。一度、行動を起こす前に己の本心と他者の視点を仮想することで自分を見失わないようにしたい。
(他人のことばかり思いすぎると、自分の思うようにことが運ばないのである。)
また筆者によれば、評価を下す他者は3つに分類される。
・親和的他者(親、兄弟など)
・集団的他者(学校の仲間、会社の同僚、上司)
・一般的他者(良識や社会規範を人格化したもの)
3つの他者類型には、それぞれ特徴があるが、現代においては親和的他者への承認要求が強いようである。
筆者は、現象学やらなんやらとを引き合いにだしてこの状況へ至る過程を論じているのだが、人間だれしも(?)身近な存在でまず頭に浮かぶのは「親族」であるので承認をまずは彼らに求めるのはある程度自然なことなのではないだろうか。
なにが良識で、それが本当に正しい行為なのかわからないなかで社会に認められるため我々は日々行動している。
(たとえば、電車でババアに席を譲ったり、ガキが泣いてたら助けたり)これは、行いをした本人の中で「きっと正しい行為だ」という幾ばくかの思いがあるため行われる。同時に、目に見える他者、目に見えない他者両方に自分は認めてもらえる(いい人だと)ことを期待している思いが入っている らしい。要は、人間ある程度は他人の目を気にしている。
しかしながら、気にしすぎると「自意識過剰」だとか「統失」というレッテルを貼られる。
認められたい という思いが強くなると、それはレッテルを貼られることを望んでいることになるのだろうか?
望んでいないとしても、その思いが強くなり表面化して他者へ伝わった時、レッテルを貼られてしまうだろう。
(僕の場合、変態のレッテルを貼られた。別に嫌ではない。)
優しい人 と言われすぎるのも、意外と悪いことなのかもしれない。
次回は 渋谷知美『日本の童貞』(2003年 文春新書)について(予定)
★『近代部落史』(黒川みどり)を読んで
★『近代部落史』(黒川みどり著)平凡社新書
タイトルの通り、近代(明治~現代)を中心に部落差別問題における被差別民の動向と彼らをとりまく当時の日本の状況について書かれています。
印象に残ったいくつかの点を羅列します。
●人種主義という視点
この本を通して書かれていることは、部落差別の根底には「人種主義」という考えがあることです。この考えは明治から現代まで一貫して「部落民は朝鮮人、あるいはその他劣等民族であり、大和民族ではない」といったような主張に基づいています。
この「人種主義」に対して「起源説」という、部落差別は江戸時代の身分制度によって生まれたのだと主張する考えが対抗軸として生まれました。
「人種主義」という考えは、現代の技術によって遺伝子の分析などを行えば、被差別民も何ら変わりない大和民族であることを証明できるのですが、近代においてはそのような技術は無いために学者が「人種主義」を主張すれば、それが一般大衆にも受け入れられるため、差別は当たり前のように慣習として残っていたようです。
●行動する被差別民たち
被差別民たちは、差別の現状を打破すべく近代になると団体を組織し、解放運動を始めました。代表的なものには「全国水平社」などがありますが、それ以前には地域単位での組織や政府とつながりをもった団体(帝国公道会)がありました。
差別からの解放 を目標にすることはどの団体にも共通ではありましたが、それぞれの行動様式の違いによって衝突を繰り返し、彼らは時に内部分裂を起こしました。
そこには、メリットもデメリットもあったでしょう。特にデメリットとしては、政府の後援を受けていた「帝国公道会」などの台頭によって解放運動は政治の道具になりえたこともあったようです。
被差別民たちは、一貫して差別からの解放を求めたのは明らかですが、その過程で彼らのよりどころとなった思想にはばらつきがあるようにも思えました。
時には、天皇を中心とした国家主義に非常に協力的になったり、また共産主義の影響を受けることで逆に天皇制を差別の根幹とすることもあったりしたのです。
特に戦時中は、天皇中心主義が国民に求められ、被差別民は協力的でした。なぜなら被差別民以外の国民と行動を共にすることで、被差別民の立場も他の国民と同様になるのではないかという考えがあったからです。
時代の思想や政治体制に翻弄された被差別民たちの歩んできた歴史が本書には読みやすい文章で書かれています。
差別問題などにご興味のある方にはおすすめです。
- 作者: 黒川みどり
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2011/02/16
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大阪に生まれた4人の作曲家たち
オーケストラ・ニッポニカによる大阪ゆかりの作曲家による作品を集めた演奏会の感想
団員の方とTwitterでやり取りしている限り、聴く前からはロマン的な交響曲という予想は持っていませんでした。時代も戦後ということ、清水はフランス的な作曲家だという深井史郎による分類から、現代音楽に近いものを予想していました。(ロマン的なものを予想できる可能性の根拠としては、合唱曲「山に祈る」といった他の清水作品があるからです。)
いざ聴いてみると、やはり耳に残るメロディーというのは皆無でしたが、ところどころに感じる民族的な響き、バーバリズムさえ感じる強靭なリズム、そして特にフルートに聴くソリスティックな表現が印象に残りました。解釈をもっと多くしていけばこの作品はもっと成長すると思います(偉そうにすみません)。
♪宅孝二:ロンド・カプリチオーソ~小オーケストラのための
この作品にはまず一言「たまげた」といいたくなりました。
宅のピアノ曲「プーランクの主題による変奏曲」の印象ばかり強かったので、今回の作品も洗練されたフランスの響きを感じさせるものだろうと期待していました。
しかし聴いてみるとビックリ…… アヴァンギャルドな響きではありますが、フワフワとかオシャレみたいな印象は受けません。「これはまたビックリだ」なんて思ってると今度はピアノのソロが出てきて、「プーランク…」に似た響きに一転したのです。この作曲家はきっと何かある…!と感じさせた作品でした。もしもCDが出るならば繰り返して聴いてみたい曲です。
♪大澤壽人:トランペット協奏曲
まずは戯言から… 以前僕の夢の中に大澤壽人が出てきたことがありました。その時彼はピアノに向かって作曲していて、僕が「何を作曲されているのですか」と尋ねると大澤は「これはトランペット協奏曲だよ」とおっしゃっていました。(あくまでも夢の中での話です)
今回はその作品を実演で聴けました。第1楽章の冒頭から引き付ける魅力をもった響きから始まり(しかし協奏曲の始まりにしては大人しい)、ワルツの非常に親しみやすいメロディーが乗りやすいものだと思いました。第2楽章、思わず「え?終わり?」といいたくなるくらいの短さでしたが、この短さに大澤の音楽が凝縮されていると思いました。全曲中この楽章が1番ジャジーでカッコイイものでした。特に金管の奏でる音にはキラリと光るものがあり、一際この楽章を始めて聴く我々に魅力的に伝えてくれたと思います。
第3楽章は、ソロも管弦楽もその実力を発揮している華やかな楽章で協奏曲のラストにふさわしいものでした。大澤が1950年代にトランペット協奏曲を作曲した背景には一体何があるのか気になるところですが、今回その曲を実演で聴けたのは有意義でした。
♪大栗裕:大阪俗謡による幻想曲
今回の演奏会4作品中おそらく1番演奏回数が多い作品です。僕もCDで聴いたことがあります。曲の構成がつかみやすく、曲想が宗教的になったり、華やかなものになったりと聴くものをあきさせない作品です。演奏者達の様子を見ても、生き生きとしていて、そのまなざしに、作品にたいする熱意をひしひしと感じました。この作品がノリやすいというのもあったのではないでしょうか(聴衆目線ですみません)。過剰な民謡の多用や民族的な表現は僕個人としてあまり好まないのですが、大阪俗謡の場合はそのような不満を感じさせないものでした。(大澤の「てまりうたロンド」も同様)
オーケストラ・ニッポニカ第22回演奏会 総括
去る9月2日(日) かねてから大ファンだったオーケストラ・ニッポニカの演奏会に行ってきました。
このオケは、主に日本人作曲家の作品演奏に力を入れており、その活動は他のオケには真似できないくらいのパワフルで貴重な意義のあるものです。
■プログラム
指揮:寺岡清高 Trp:神代修 管弦楽:オーケストラ・ニッポニカ
・宅孝二:ロンド・カプリチオーソ
・大澤壽人:トランペット協奏曲
・大栗裕:大阪俗謡による幻想曲
各曲への感想は別の記事に書くことにして、総括のほうを先に書きたいと思います。
今回は「大阪に生まれた作曲家たちによる交響作品」ということで、指揮者、ソリストまで大阪に関わる人々をそろえた点に、ニッポニカの構成力や企画力の高さを感じました。
加えて、前半と後半には楽員の方と指揮者のトークがあり、聴衆を精神的な面からも演奏に入りやすくする配慮が感じられました。
いったいここまで思いやりに溢れたアマオケが他にあるでしょうか???
僕はニッポニカ以外にはありえないと思います。
もはや彼らはアマチュアの域にとどまるべきではありません。プロとしてその活動をもっと幅広く展開していくべきでしょう。
しかし、このような展望を抱いたところで我々聴衆も行動をしなければなりません。
現実的すぎる話ですが、金銭面での援助というものは必要でしょう。加えて我々が彼らに思いやりのある精神的な援助もすることも必要なのではないかとも思います。
なによりも、演奏者の方々の熱意に胸を打たれる素敵な演奏会でした!