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【読書感想文】『認められたいの正体』(山竹伸二)を読んで

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

友人のM田くんが、以前この本を読んでみておもしろかったということを聞いていたので前々から読みたいと思い、夏休みという時間があったので読んでみました。

この本で全編に一貫して出てくる主張 それは

・かつては人々の価値観慣習などによってある程度定められていたため、それに従い他人を評価することができたが、時代が進み、現代においては技術の進歩によって価値観が多様になり、評価する基準が不明瞭になった。

そのため、簡単に自分を評価してもらうことは容易ではなくなり身近な他者からの承認を求めるようになった。その行動を選ぶ際、常に他人にどう思われるかばかり気にしすぎると自分を見失う。一度、行動を起こす前に己の本心と他者の視点を仮想することで自分を見失わないようにしたい。

(他人のことばかり思いすぎると、自分の思うようにことが運ばないのである。)

 

また筆者によれば、評価を下す他者は3つに分類される。

親和的他者(親、兄弟など)

集団的他者(学校の仲間、会社の同僚、上司)

一般的他者(良識や社会規範を人格化したもの)

3つの他者類型には、それぞれ特徴があるが、現代においては親和的他者への承認要求が強いようである。

筆者は、現象学やらなんやらとを引き合いにだしてこの状況へ至る過程を論じているのだが、人間だれしも(?)身近な存在でまず頭に浮かぶのは「親族」であるので承認をまずは彼らに求めるのはある程度自然なことなのではないだろうか。

 

なにが良識で、それが本当に正しい行為なのかわからないなかで社会に認められるため我々は日々行動している。

(たとえば、電車でババアに席を譲ったり、ガキが泣いてたら助けたり)これは、行いをした本人の中で「きっと正しい行為だ」という幾ばくかの思いがあるため行われる。同時に、目に見える他者、目に見えない他者両方に自分は認めてもらえる(いい人だと)ことを期待している思いが入っている らしい。要は、人間ある程度は他人の目を気にしている。 

 

しかしながら、気にしすぎると「自意識過剰」だとか「統失」というレッテルを貼られる。

認められたい という思いが強くなると、それはレッテルを貼られることを望んでいることになるのだろうか?

望んでいないとしても、その思いが強くなり表面化して他者へ伝わった時、レッテルを貼られてしまうだろう。

(僕の場合、変態のレッテルを貼られた。別に嫌ではない。)

 

優しい人 と言われすぎるのも、意外と悪いことなのかもしれない。

 

次回は 渋谷知美『日本の童貞』(2003年 文春新書)について(予定)